私は22歳の時に甲状腺癌になりました。
癌の中でも予後が良い方で、進行は遅く、痛みもありませんでした。
ただ、自分が癌を経験したことで学んだこと、感じたことは数えきれないほどあります。そして生きていることへの感謝と共に、癌を経験したことへの感謝もあります。
今回は短い闘病期間についてと、癌を通じて感じたことを赤裸々にお話しします。
同じ甲状腺癌の方、甲状腺の病気の方に少しでも参考になれば幸いです。
甲状腺癌とは
甲状腺の一部に悪性腫瘍ができることで、主に6種類の癌があります。
②濾胞がん:甲状腺癌の5%
③低分化がん:甲状腺癌の1%未満
④髄様がん:甲状腺癌の1−2%
⑤未分化がん:甲状腺癌の1−2%
⑥悪性リンパ腫:甲状腺癌の1−5%
私の場合は乳頭がんでした。
乳頭がんは極めてゆっくり進行し、予後がよいとされており、命に関わることは稀とのこと。しかし、一部が再発を繰り返したり、悪性度が高い癌に変異することがあります。
詳しくはこちらをご確認ください。
https://ganjoho.jp/public/cancer/thyroid/index.html
癌が発見されるまで
自覚症状はありませんでした。
しかし、目が不自然に出てきているように感じたのが21歳後半の頃。もともと目が大きい方でしたが、さらに前に出てきたような感じでした。母は早い段階で気が付きました。ただ、病院に行ったのはこれが理由ではありません。
当時私はイギリスの大学に通っていました。
夏季休暇に入り日本へ帰国すると同時に、大好きな叔母が突然他界したのです。この時のショックと悲しみで体にストレスがかかったのか、手指などに痛みを感じるようになりました。
この痛みのお陰で病院に行き発見することになりました。
行った先は甲状腺専門病院として有名な伊藤病院。
目が出ていることや、首の付け根が少しポコっとなっていたので、もしかしたら甲状腺系の病気かもしれないと母が推測し、伊藤病院に行きました。
検査は血液検査と首の超音波検査だけ。
超音波検査の結果、腫瘍があることがその日に分かり、細胞診(太い注射針で一部の細胞を取り検査)を行うことになりました。
超音波検査結果の写真を見せられている時、私は腫瘍とその周りを念入りに目に焼き付けました。
一人になった時、インターネットで良性と悪性の写真での見え方の違いを調べました。この時点で自分は悪性腫瘍(甲状腺癌)だと察しました。
意外と自分は冷静で、真っ先に考えたことは「いかに親に心配をかけないか」でした。特に姉を亡くしたばかりの母には心配をかけたくありませんでした。
きっと大丈夫だから!
と親に言い、細胞診の結果は後日一人で聞きに行きました。
癌と告げられる日
検査結果を聞きに行ったのは平日の昼間でした。
待合室で待っていると看護師さんが私の元に来て「今日は親御さんはご一緒ですか?」と聞いてきました。その時点で「あ、やっぱりそうなんだ」と確信。
診察室に入ると比較的若めの男性医師が説明を始めました。
医師は「癌」や「転移」という言葉を使わず、周りくどく説明をしていました。恐らく私のことを気遣ってくれたのでしょう。
しかし、私は夏季休暇後にイギリスに戻れるか、予後がよい癌ならいつ手術をすればいいのか、いかに周りに迷惑をかけないで治療することができるか、それらを早く知りたく、医師に私から尋ねました。
つまり、癌ですよね。そこにあるのはリンパ節に転移しているということですよね。今後の治療の流れを教えてください
医師は甲状腺を全摘出し、転移先のリンパも一部摘出すれば大丈夫だろうと説明をしました。
私は、進行が遅いなら来年帰国した時に手術をしたい旨伝えました。そうすれば卒業論文も出した後なので、安心して手術を受けられると考えたのです。かなりぶっ飛んだ考え方かもしれませんね。
医師は承諾してくれたので、私は帰宅することにしました。
親に癌と伝える時
帰宅途中、父と途中で待ち合わせて一緒に帰ることにしました。
「とにかく明るく元気に伝えよう」その一心でした。
ホームで父と会い「どうだった?」と一言。
うん!癌だった!でもね、タチの良い癌でね、進行もすごく遅いし、手術すれば大丈夫だって!
笑顔で伝えましたが、父の顔は暗くなりました。
その後も私はどうでも良い話をペラペラ話しながら一緒に帰宅しましたが、この時父は膝から崩れ落ちそうになっていたそうです。後から聞きました。
帰宅後、少し遅れて仕事を終えた母から電話「どうだった?」と。
大丈夫だよー!気をつけて帰ってきてね!
明るく伝えました。よし、このまま明るく乗り切ろう。そう思ったのも束の間、母が帰宅すると同時に「癌だって‼︎」と父は少し大きめの声で言いました。
あの時の顔面蒼白の母の顔は今でも鮮明に覚えています。
明るく乗り切ろう作戦は終わりました。
状況を説明し、手術は来年にしたいと伝えましたが、納得してもらえず(そりゃそうですよね)、次の日3人でもう一度病院へ説明を聞きに行きました。
次の日説明してくれたのは外科部長でした。
最初に説明してくれた医師とは異なり、できるだけ早めに手術を受けるように言われました。それでも手術の予約が取れるのは秋とのこと。秋には新学期が始まるのでイギリスに戻りたいと思っていました。
大学を留年せずに卒業し、みんなで帽子を投げるのが私の夢であり、住み込みベビーシッター先の家族も待っているし、新学期からは大学のサークル長の役割が待っていたので、なんとしてでも手術を遅らせたかったのです。
両親は留年することを提案してくれましたが、わがままを言い通し、結局短い冬休みに一時帰国して手術を受けることになりました。
癌と向き合う
転移先の癌の位置によっては、今の声が出なくなる・かすれる可能性があるが、手術をしてみないと分からないと言われたことは少しショックでしたが、不思議と自分は大丈夫だと前向きに捉えることができていました。でも心のどこかで不安はとてもあったんだと思います。
問題は私の周りの人に心配をかけてしまうということ。
叔母が他界し49日。まだ日も経っていないのにこのようなことになり、祖父母や従兄弟家族、両親や兄弟に申し訳なく感じたのです。
49日のために集まった時、私が到着すると親戚みんなが玄関に集まり、大丈夫か体は辛くないかと心配してくれました。皆一晩中起きていたのかあまり寝ていないような顔で、どうやらみんなで甲状腺癌について調べていたとのこと。
驚くとともに感謝しかありませんでした。
家族を亡くしとても辛い状況なのに、それでも心から人の心配をしてくれるその優しさに、言葉では言い表せない想いが込み上げてきました。
私はしっかりとこの病気を治してみんなを安心させたい、そのために頑張りたいと思いました。
これが本当に癌と向き合うということだったのかもしれません。
入院・手術
声がかすれるようになって出にくくなる恐れがあったので、頑張って手術前に第一志望の企業の内定を取りました。これには家族・親族も一緒に喜んでくれて、安心して手術に挑むことができました。
元気な状態で入院し、絶食前には母が可愛いアイスケーキをホールで買ってきてくれ、喜んでパクパク食べていました。
手術当日は緊張もあまりなく、歩いて手術室に向かいました。
手術が終わり目が覚めた時はまだ手術室。ぼんやり目を覚ますと猛烈な吐き気と気持ち悪さがはじまりました。
そのまま病室へ。たくさんのチューブに繋がれ、血栓防止のためにも脚に機械がつけられていました。
ここから2日間はとにかく吐き気と浮腫みが酷かったです。
さらに、甲状腺全摘出の他、副甲状腺の半分も摘出しており、残った半分はまだ機能できていなかったため、カルシウム生成がされず、手足の強い痺れも続きました。
自分の手とは思えないほど浮腫みでパンパンになっている上、痺れもあるため、トイレすらままならない状態で、看護師さんに手伝ってもらっていました。
3日目には少しずつ落ち着いてきましたが、今度は肩こりからの頭痛に悩まされました。
首からはまだチューブが出ており、傷口も痛むため、首が動かせず、ガチガチの肩こりになりました。地味にしんどかったです。
それでも遠くからお見舞いに集まってくれた親戚とケーキを食べたり、家族や友達と話したりしていると気が紛れ、元気が出てきました。
その後チューブも抜かれ、シャワーも浴びれるようになり、わずか7日目には退院しました。
術後経過
通常、手術後1ヶ月後と3ヶ月後に検査をするのですが、私はイギリスに戻るために、手術後1ヶ月前に一度検査を受け、半年分の薬をもらいました。
半年間は首にテープを貼り、甲状腺ホルモン剤とカルシウム剤を飲みながら通常通り過ごしました。
半年後に本帰国したあとは、3ヶ月毎に通院し、術後2年目からは6ヶ月毎の通院となりました。
2年も経つと首元の手術痕はほとんど分からなくなり、ツッパリ感も無くなりました。特に伊藤病院は甲状腺専門なので技術が高く、首元の縫い目もとても綺麗です。
ただ、甲状腺が全部無いため、一生ホルモン剤を飲み続けなければいけないですが、その他は問題なく元気に過ごせています。
この経験を通して感じたこと
私はこの経験にとても感謝しています。
私がどれだけ多くの方に優しく見守られ支えられながら生きてきたのか、再認識することができました。
また、人に迷惑をかけたくない、弱音を吐きたくないと強がっていましたが、辛い時は素直に誰かに頼って良いんだと、知ることができました。
そして、元気に生きていられることへの感謝とともに、周りの方への優しさに感謝することができました。
これからも元気に明るく生きていきたいと思います!
最後まで読んでいただきありがとうございました。今記事が少しでも誰かの役に立てれば幸いです。
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